きらきらのたまご

私の私による私のための休憩室

ため息を白いバラに変えて

とてもむずむずしている。好きな人に最近距離を取られているからか、大学にも行かず毎日仕事ばかりしているのに思いの外稼げていないからか、理由はよくわからないけれども。

彼に「最近冷たくない?」って可愛げ満点で(自己評価)抗議してみたけど、「そんなことないよ。それより最近太ったよね?俺デブは嫌い」と一蹴された。たしかに最近太ったのは否めない。久しぶりに体重計に乗ったら3kgくらい増えていて、自分でもまずいなと思い始めた。しかし、デブは嫌いっていうのは酷すぎると思う。それで距離を取られているんだったらもっと酷い。何も言わず静かに遠ざかっていって、だんだん他人になっていくのかと思うと泣けてくる。しかも、痩せれば解決するのかといえばそうでもない気もする…でもわたしにできることといえば痩せることしかないのも分かってはいるのだが。女性的魅力を取り戻さなければ、まず彼の気持ちはわたしの方を向かないのである。

というわけで、とりあえず断食を3日間してみようと思う。固形物を食べず水分だけ摂ることによって便秘も解消されるかもしれないし。あと、明日の昼は彼のことを考えずに買い物にでも行こう。仕事以外で外に出ないのもむずむずの原因になっているだろうし。

すがらなくても愛されるように、すがらなくても生きられるように、なればいいな。

チーズちくわな関係

大変どうでもいい話だが、私はチーズちくわ、略してチーちくが好きである。しかし、片方から食べていくと必ずチーズがはみ出してしまう。上手に辻褄を合わせてチーズとちくわを同時に食べ終わりたいのに、なかなかそれができない。まぁ本当にどうでもいい話だった。


今日は2限は起きられず(ダメ人間すぎる)かろうじて3.4限だけ出て、夜は仕事に行き、仕事終わりで友人宅に行き鍋をした。鍋をした、と言っても一人でだけど。友人はとても自由な人で、鍋が食べたいと言うからわざわざそこそこ遠い彼女の家まで行って作ったのに、気がついたらすやすや寝ていた。結果一人鍋。大体いつもこんな感じで、私が積極的に行動すると彼女が脱落し、彼女が積極的なときは(非常に稀だけど)私が脱落する。ああ、なんてチーズちくわ。よくわからないけど。でもお互い自由だから丁度良い距離感で無理せず仲良くできるのかもしれない、とも思う。今回の寝ちゃって一人鍋する羽目になった件については、着なくなったスカートを2枚もらったから許してあげよう。ただ、非常に痩せている彼女の服はきつかった。痩せなくてはというプレッシャーと、一人で鍋を食べてしまった後悔を背負って家路に着いた。結局テンションは下がっているという謎。チーちく暫く食べない。


昨日のことだけど、やはりYUKICoccoをポップに昇華することはできなかった。気がついたら音楽を消して本にのめり込んでいる自分がいた。疑問はいくつも生まれてきたが、それでも昔の自分と同じように彼女の考え方にのまれてしまった。やはり、一度でも通った道は覚えているものである。ああ、そうだった。こうなりたかったんだ。こういう生き方がしたかったんだ。過去形で、今の自分も将来も見ないままそんなことを思った。変わらない日常が目の前にあって、自分が交わることのない世界のことを客観的に見ているような感覚。前は交わることができるって信じていた。今でもできるって言い聞かせているのに、自分で知らず知らずのうちに無理だったと過去形にして通り過ぎようとしている。自分が嫌いな大人に近づいているようでとても嫌。

地に足をつけるのって良くも悪くも振り切れない。メーター振り切るくらいの人生がいい。まだ夢見る少女でいたいのよ。夢見るだけじゃダメだってことはもう知ってるけど。今のところ平々凡々。このまま行くと一生安全運転。ちょっと事故ったからゴールド免許はしばらく無理。そんな感じ。つまらない人生になってきたなと我ながら思う。



今もつ鍋の脂による胃もたれと闘いながらブログを更新しているのだが、そろそろ胃の痛みを忘れるためにも寝ることにする。

おやすみなさいまし。

時間が過ぎるのは早いもので

大変久しぶりになってしまった。

なんだか時が過ぎるのが早いなと感じる。高校時代お世話になった先生がこんなことを言っていた。『時間の経過を早く感じるのは一瞬一瞬を適当に過ごしているから』だと。当時はその先生のことを面倒臭いクソジジイとしか思ってなかったが、今では本当にその通りだと思う。私はブログを更新しなかった7ヶ月余りの時間に何を生み出せたというのだろう。日々浪費する金を稼ぐくらいしかしてこなかったと思う。そもそもは自分の金遣いの荒さがもたらした金欠のために昼も夜も働き、大学にはロクに行かず、私は何をしていたんだろう。

今、1年ぶりくらいに家の湯船に浸かっている。いつも暇さえあれば2ちゃんねるのまとめブログを読み俗世のことに気を取られながらほぼほぼにやけているばかりで、自らのことを省みることをしてこなかったなと、そんなことを思ってブログを書き始めたのである。まず、どうしてこんな時間に風呂に入ろうと考えたのか謎だが。大体いつもこんな感じで、寝られる時間があるのに何故か寝られず意味のない時間を積み重ねてしまっていると思うと、自分はなんて生産性の低い人間なんだと悲しくなってくる。

部屋は割と綺麗だし、昨日は美容院で石原さとみ風の暗髪に染めてまつエクもしてコンディションはいいと思うのだが、なんだか清々しくないのは元カレの元カノのブログを読んで二人が会っていたのを知ったからだろうか。いや、そんなことはない。別れて大分経つ元カレのことなんか今さら何も気にしていない。そのくらいには私は成長しているのである。もう男を引き止めるために楽天ショッピングで手錠を買うこともない。

そうだ、清々しくないのは寝られないせいで今日大学に行けるか不安だからだ。それか、妖怪のせいだ。今流行りの。


時の流れは早い。ポケモンかと思えば妖怪ウォッチだし、失恋ショコラティエかと思えばディアシスターなのである。前の記事に書いた片想いの相手のことなんて今となっては少しも考えていないし、もう別の人を好きになって2週間に1回会えるのを楽しみにしている自分がいるのである。時の流れに身を任せているとどこまでも流されて、50.60喜んで!になってしまうのだ。それだけは嫌だ。若いうちにどげんかせんといかんのである。ずるずる年を取るのだけは避けたい。私は石原さとみからの永作博美からの桃井かおりからの森光子を目指しているのだ。そういう生き方をしなくてはならない。どういう生き方かはさっぱりわからないが。


とりあえず、高校から浪人時代に相当好きで自傷癖まで美化してしまうくらい憧れていたCoccoの本を、しなしなになることをおそれず風呂に持ち込めるくらいに精神的に強くなった自分を褒めてあげたいと思う。これからYUKIを聴きながらCoccoを読んで、大好きな豆乳を飲んで少しだけ眠って大学に向かおう。

大人の事情、子供の事情

お久しぶりになってしまった。
 
携帯が壊れたので大衆に迎合してiPhoneにしてみたのだが、ブログの編集が難しい。何故か文字のサイズがおかしくなったりするし。それでも頑張って書いていこうと思う。
 


最近、私はチャラチャラしすぎである。  

毎日のように仕事の後飲みに行っているし、欲求不満なのか、男ならもはや誰でもいいのかというくらい媚を売ってしまっている。別にそんなことで自分自身が嫌になったりはしないのだけれど、そのことで自分が好意を持った人に迷惑をかけてしまいそうなことが問題なのだ。

その彼とはちゃんと話したこともあまりなかったのだけれど、飲み会での酒が入ったノリで急に親しくなった。彼は普段本当に真面目な人だから今になって後悔しているのもわかるし、私と距離を置きたいと思っているであろうことは容易に想像できる。大人には色々事情がある、なんて突き放されてしまったのも仕方ないと思う。でも、それで終わってしまうことが私はとても寂しいのである。


これからどうすればいいのかと考えてみた。会う用事もないし誘える身分でもない気がするし、何よりも、彼にとって私が特別必要な存在でもない上私の気持ちだって興味本位でしかないのかもしれない。そう思うと距離を置くのが正しい大人の選択だという結論に達する。
大人の選択とは何なんだ。子供扱いされているんだからそこに甘えて好き勝手やればいいじゃないか。そう言ってくる無邪気なようで邪気に溢れている自分と、もう23歳になるんだから相手の立場も考えて身を引こうよと言ってくる冷静な自分がいる。


あぁ、大人って何なんだろう。私は大人を大人だと思ったことはほとんどないが、相手の立場を思いやれないほど子供ではないのだ。責任のない立場で責任のある人間を傷つけるのはいかがなものか。良くないことであるのは重々承知の上であるが、ならばそういう人間と積極的に関わること自体罪なのではないか。当たり障りなく関わり深入りはしない。それが責任のない者の義務なのではないか。大人の事情もあるが、子供の事情だってあるのだ。というわけでしばらくはおとなしくしていようと思う。


 
私も色々と考えているんだということ、それだけは彼にもわかって欲しい。 


シンデレラは王子様と出会わなくても幸せになれたのか

昨日、とうとう片付けられない女を卒業した。


昔から掃除や洗濯が得意じゃなかったし、忙しいから仕方ないと自分に言い訳をしながら散らかった部屋で生活することに慣れてしまってもいた。そもそも片付け方なんて知らないし、散らかり放題散らかってしまった後は尚更、どこから片付ければいいのか検討もつかない。片付けられない人間の代表である。
そんなダメ人間がどうして部屋を綺麗にしようと思ったかというと、本当に些細なことなのだが、ちょっと前に炊飯器に虫が湧いたからである。まさか炊いたご飯を放置してしまっているとは思っていなかったし、保温しておいた温かいご飯に虫が湧くなんて驚きだった。何よりも、虫が大の苦手である私は、他にも虫がいたらどうしようとものすごく不安になってしまったのだ。そして、そんな環境で生活している自分にも嫌気が差してきた。急に綺麗な部屋で優雅に紅茶を飲みたくもなった。Amazonで衝動買いしたものの届いた日からずっとダンボールの中にいた羊の抱き枕を抱いて寝たくもなった。
ただ、どうやって片付けようか。困った私は、Googleで検索してみた。


“片付け 業者”

本当に私はクソである。自力でどうにかするのではなく、他人にどうにかしてもらおうと思ったのだ。
思い立ったら即行動な私は、すぐに業者に連絡を入れた。お金はかかるが仕方あるまい。私の心的負担になるのは、お金よりも労力なのである。

というわけで、昨日ついに業者さんが来て部屋が見違えるほど綺麗になった。先程「片付けられない女を卒業した」と言ったが、これは誤りである。自分一人で片付けられないのだから、未だ私は片付けられない女だ。
ただ、必要なものだけを選別して入れたダンボールが4つ程部屋の隅に残っている。これは自分でどうにか整理しなくてはならない。私の闘いはこれからなのである。このダンボールたちを倒したとき、私は片付けられる女になった!と空に向けて拳を高らかに突き上げたいと思う。


何はともあれ、私は今綺麗になった我が家でこのブログを書いている。左手には缶コーヒー。紅茶を淹れることはできなかった。面倒くさいし疲れたし。本当に私はクソである。

吾輩は猫である。いや、クソである。名前はあるけれど名乗るほどのものではない。
使い古されているネタだけど、とりあえず言ってみたかった。満足。




唐突だが、私は今日失恋した。失恋ショコラティエの失恋部分だけ経験できた。ショコラティエは経験できないだろうが。

なぜ今日失恋しなきゃいけなかったかというと、今日はバイトの後同僚の女の子と2人で飲んだのだが、その時に酒の勢いで片想いの彼に「暇な日ない?」と連絡してしまったからだ。どうやら私は最近いろいろこじらせているらしい。

私「暇な日ない?」
彼「どうした?」
私「ちょっと相談があって」


─中略─


彼「本当に無理です。ごめんなさい」


無理らしいです。なぜ敬語なんだ、というのはさておき、ここだけの話心が折れました。ポキンと音が鳴った気がしました。大動脈でも折れたんじゃないかな。血の気が引いたのもそのせいかも。一緒に飲んでいた同僚の女の子がありきたりな言葉で慰めてくれました。そんなこと言うような男はクズだからやめてしまえって言ってくれました。その声が遠くからかすかに聞こえました。あぁ、消えたい。幸せって何だっけ。

確かに、もっと当たり障りのない言葉で断ってくれれば良かったのに、「本当に無理」なんていうかなり投げやりで相手が傷つくことが容易に想像できる言葉を選んできたあたり、彼はいい男ではないだろう。だが、そんな言葉を言わせてしまった私にも非がある。会う度に好き好きオーラを出してしまっていたと思うし、特別な存在になることを求め過ぎたとも思う。私でも同じ立場なら、なかなか諦めてくれないことに痺れを切らして「本当に無理」という言葉の核爆弾を持ち出してしまうかもしれない。いや、想像してみて思ったのだが、この台詞は自分に自信がないと言えないような気がする。私ならやんわりと、返信しないとかブロックするとかするだろう。それもなんか陰険で嫌な感じがする。じゃあはっきり言った彼のほうが男らしくていいじゃん、とか思ってしまった自分を殴り殺したい。


これにて私の片想いは無事に(?)完結したわけである。まぁ、運よく彼と付き合えても上手くいく気は全くしなかったから、きっぱり振ってもらってよかったのかもしれない。軽い気持ちで女の子に手を出したりしないあたり、意外と紳士なのかも!って思ってしまった自分を殴り殺したい。

好きになって欲しかったし私も好きだったけれど、私の「好き」も、自分に全く好意的でない人間を振り向かせたいとかキスしてみたいとかそういう類のしょうもない他人承認欲求であり、戯れに過ぎなかったのかもしれない…とか今さら考えるのは無意味だからやめよう。そんなの慰めにはならない。「好き」というのはそもそもいろんな要素が集まった複雑な感情だから、それがどういうものか説明しようとすると途端に陳腐なものになってしまうし、解明しようとするとその感情自体を否定することになってしまう。どんな「好き」だっていいじゃないか。その感情を抱いたならその人にとってはそれが真実だし、人の気持ちなんて個人差があって当たり前なんだから。私なんかが恋愛を語るなんてちゃんちゃらおかしいんだけど。彼氏ができてラブラブひゃっはー♡状態でこんなこと言っても説得力なさそうだから、振られて間もない100%フレッシュな今しかない!いつ語るの?今でしょ!っていう感じでね。



お城は綺麗だ。そこに住んでいる姫はこんなだけど。王子様もいないけど。それでもこれから素敵な物語がはじまることを期待している。強がりじゃないよ。

タナトスの行方、大根と雨粒のダンス

なんなんだろうね。
雨だしさ、タクシー乗ったら遠回りされたしさ、謝られなかった上「料金ここまででいいんで」とか言われるしさ、ここまででいいんで、じゃないよ!何で半分キレてるんだよ!ここまでって言ったっていつもより高いじゃんよ!って感じだったしさ、携帯の調子悪いしさ、便秘は続いてるしさ、ダイエットのために炭水化物抜こうと思ってたのにステーキにご飯大盛り食べちゃうしさ…


大したことじゃないんだきっと。そんなことでモヤモヤするようでは、仏様までは三千里より遠い道のりだ。仏をたずねて三千里。いや、何言ってるか自分でもちょっとわからない。別に仏様になりたいわけじゃないけど、諦念っていうか、そういう境地に辿り着いてみたい。戸川純的な、プシガンガ的な。とりあえずプシガンガ(歌って踊る、の意味らしい)してみようか。何でだ。雨乞いみたいになっちゃうよ。ていうか、もう雨降ってるよ。そうだ、皆で豊作を祈ろう。

あぁ、もう雨とかタクシーとか携帯とか糞詰まりとか炭水化物とかどうでもよくなってきた。便秘より糞詰まりの方が汚いな。オブラートに包むつもりだったけどそもそもオブラートを持ってなかった。ボキャブラリーが貧困すぎる。



そういえば、私は一人で連想ゲームみたいに考え事をするのが好きだ。フロイトが言うところの自由連想法というものになるのだろうか。連想していくうちに、思考は刺激語から離れて遠いところに飛んでいってしまうから、最終的にはいろんなことがどうでもよくなるし馬鹿馬鹿しく思えてくる。飽きるまでとことん連想することが、救済への近道なのだ。しかもなんか楽しい。道具がいらない最高の一人遊びである。


ただ、その中で思いついたことを衝動で行動に移すとろくなことがない。

月9失恋ショコラティエを観る

沙絵子さん(簡単に言うとモテモテ女子)みたいになりたい

そもそも恋がしたい

前に振られた人がまだ諦められないからダメなのかもしれない

あ、そういえば今彼の携帯は壊れている

メールしてもどうせ見れないし直っても見れないはず

これを読むことはないだろうけど好きです、と書いて送信(この時点で、『ちょっと健気な女子』っぽいことをしたと満足感を得る)



「直ったから見れたよ、いきなりどうした?」と困惑気味に返信が来る

…これはつい昨日の話だ。つい昨日やらかした。本当に死にたくなった。穴があったら埋まりたかった。とりあえず足だけ出そうか。いや、綺麗な細い足だったらまだしも私の足は本物の大根だと思われて引き抜かれてしまうかもしれない。そもそも何で足を出そうと思ったんだ。
あぁ、なんかどうでもよくなってきた。


こんな感じだ。ろくなことがないと言いつつも最終的にはどんなことも大抵どうでもよくなってしまうのだ。だから同じような過ちを繰り返してしまう。そろそろ学習しなくては。ネズミだって何度か繰り返せば迷路から脱出できるのだから。人間にできないわけはないのである。思考と妄想
は自分の心とブログに留めておいて、私は沙絵子さん、もとい沙絵子さんを演じる石原さとみみたいなモテモテ女子になるために生まれ変わるのだ。



本当に私はくだらない人間だ。お腹も下らない。はぁ。

私が働く理由について

私は恵まれていると思う。現在大学生の私は、バイトなんかしなくても仕送りで生活することが十分可能だ。それでもなぜ働くことに執着してしまうのか、ふと考えてしまうことがある。


仕送りするから勉強に集中してほしいという親心はわかる。けれど、私の自己承認欲求は大学で満たされることはなかった。そもそも大学があまり好きになれなかったのだ。真面目でもなければ不真面目すぎることもない私は、上手く大勢の学生がいる空間に溶け込むことができなかった。サークルに入って何らかの活動をしている自分に安心感を求めたこともあったが、私は協調性に欠陥があるのか息苦しくなってしまい長続きしなかった。「あなたはここにいてもいいんだよ」では満足できず、「あなたはここにいてほしい」を求め続けたけれど、私じゃなきゃダメなことなんて実際ないということもわかっていたからその欲求が満たされることはなかった。特に大勢の同世代がいる大学という場所では。


そこで私は、働くことに価値を見出していった。誰にも必要とされず寂しかったのだろうか。今までのバイトの職種が全部接客業なのもそういうことなのかもしれない。もしも私に社会性が足りなかったら、自分の存在を認められたいと思っても外に出ていくことができず、自分自身が自分の存在を認めることもできずで暗闇の中で今ももがいていただろう。
実際バイトが許されなかった浪人時代はそういう状態だったし、そこから抜け出せる時が来る気もしなかった。部屋に閉じこもり、自分の存在がいかに馬鹿馬鹿しくて取るに足りないか、ということばかり考えては消えたいと洩らしていた。そういう人間の周りには似たような人間が不思議と集まってしまうもので、浪人時代はリストカットをしまくる子や、いつもは普通なのにストレスが溜まると突然暴れだす子など、精神的に不安定な人間(メンヘラと呼ぶと軽くなってしまう気がするのでその呼び方はとりあえず避ける)と一緒にいることが多かった時期でもある。独りは辛いし、誰かに自分のことをわかってもらいたい。そんな気持ちから一緒にいただけで、互いに慰め合ったとしても結局それぞれがより孤独になっていき、いつしか相手のことは見えなくなった。誰かにわかってもらいたいという欲求と、どうせ誰にもわかってもらえないという諦めが、人を孤独にしてしまうのだ。この時の友人関係は一時の共依存に他ならなかったと思う。案の定大学に入った途端その時の友人とは全く連絡を取らなくなった。けれど、時々彼女たちのことを思い出しては今もどこかで元気に生きていることを願っている。3年経った今も私から連絡を取らないのは、私がその時の自分に戻ってしまうのが怖いからであり、そのことを気にするあたりまだまだ弱い人間だからである。そして、もしも元気に生きていなかったら自己嫌悪で押しつぶされてしまうのが容易に想像できるからである。


話は逸れたが、精神的に不安定な人間同士が一緒にいる状態は本当に救いがないし、精神的に不安定な人間と付き合うと普通の精神状態でも飲み込まれてしまうことさえある。普通の人がその時々で頼る人や物を選択して生きているのに対し、精神的に不安定な人間は何か一つのことに異常に執着し依存することでしか生きられないのだと思う。(『普通』って何回か言ってて思うけど、『普通』ってわかりにくい尺度だ。『異常』もよくわからないけど『普通』はそれ以上にわからない。どっちもよくわからないから、『普通』は良くて『異常』は良くない感じでよくわからない同士紙一重ってことでいいと思う。)
私はおそらく今でも無意識に依存できる何かを探しているし、仕事もその候補でしかないのだと思う。それでも、人と関わる中でこうやって自分自身について少しでも冷静に考えられるようになったのは大きな進歩である。


とはいえ、ただ「お金がほしい!」というのが本音な気もする。難しく考えすぎてしまうのが私の悪い癖なのだ。


お金のためだけに働くのは私には苦しいだろうし、人のためだけに働くのも私にはきっと辛い。そのバランスが上手く取れた場所でこそ私は自分自身のために働けるのだ。お金のために、人のために、ひいては自分のために、私は働くのである。